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町方の鼕叩き
明治時代になって、松江市の近郊農村部は、正月に歳徳神の祭礼を行うのに対し、町方では二月十一日の紀元節(建国記念の日)と十一月三日の天長節(文化の日)に行った。
二回とも行事は殆ど同じであるが、秋の方が盛大は町が多かった。
頭屋(又は、当屋)と称し、町内輪番で十五戸位が世話方となる。抽選で宮宿と、鼕宿が決まる。
これが当たった家はその一年幸運であるといって喜んだが、商家は商品を片づけねばならず大変であった。
宮庫を開いて、宮宿へ運び、鏡餅・御神酒等供え物をして祀る。鼕は鼕宿へ運び、当番の方が、鼕の皮の上面へ酒を吹きかけて大勢して鼕を締めて“鼕宮(鼕台)”に納める。
そして昼間は子どもが叩き、夜間は大人たちが叩く。なお、“鼕宮”へは、いろいろ飾り付けをし、各町内いろいろ思考をこらす。
例えば、数十個の提燈をピラミッド型につるすとか、幔幕(まんまく)を張り巡らすとかし、子ども達は揃いの法被に鉢巻きをし、「小若」と書いた弓張り提燈を右手にかかげ「ホウホホエンヤ、ホイランエンエ、エヤサノサッサァイノ、ラノラノラ」と声を揃えて引き出す。
「鼕宮」は、氏神様から天満宮までで引き返したものである。途中酒保と称する荷車から、大人は清酒を、子どもはアンパン等を貰う。
頭屋の中から世話係を五〜六人選んで、この人達が「鼕行列」責任者となって、世話係と書いた丸型の提燈を持ち、途中で他町の行列と行き会う時、喧嘩(昔は鼕台のぶつけ合いや、殴り合いをした)にならぬ様、お互いに注意しあってすれ違ったものである。
「鼕」の大きさは、明治初期から中期頃、大鼕を所持していた町は、横濱町と石橋三区位なもので、どちらも直径が六尺(180センチ)あった。
この鼕を、丈夫な木枠で造られた鼕宮(鼕台)に納め、太い麻縄の引き綱を付けて引き回した。
他の町は、直径五十センチ位な鼕を二個か、又は、それに小太鼓一個を加えたもので、ごく簡単な鼕台の一方をやや高くしたものに組み込み、横歩きしながら叩いたもので、この折、ミタミタ節を歌うこともあった。
其の後、町内に集会所または公会所が出来たので、平素歳徳神を納め、そこで祭りを行い、また、鼕を叩く町内が多くなった。 |
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