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左義長
左義長の風習は、中国伝来のもので、由来は、☆三毬打★さぎちょう★とも爆竹ともいい、我が国では平安時代から行われている。
「往昔、清涼殿の東庭に青竹を束ねて立て、御吉書・扇子・短冊を結びつけ、陰陽神をもって焼かしめ、燃え上がればドウドウと囃す。
主上(天皇)出御御覧云々」という記事が、『言海』*1にある。これが民間に伝承され「とんど焼」ともいわれている。
出雲地方では、各村落や、松江南北両町の各町内で、歳神さん、また歳徳神をまつり、鼕をたたきその年の豊作と家内安全を祈願した。
歳徳神は、また大歳神といい、五穀豊作を司る神として、一月一日から種々な行事を行い、十五日に、とんどの行事を行った。
その間毎日鼕をたたき、また歳徳神の御輿をかついで、各町を練り歩いた。
この行事は、明治維新の頃になるといよいよ盛んになり、十五日には、俄(にわか)をと称して、男子は女装、女子は男装をし、三味線・尺八・月琴・笛などをかなで、また歌い、獅子舞なども繰り出し、およそ一技一芸あるものは競って参加した。
一方では、酔余狂態を演じ、弊害も出たので明治六年一月に、島根県はこれを禁止した。
「但し、左義長の歳徳神を祀るは差し支えなく、なるべく質素にして宮は屋台に飾っておき、子どもがその前で鼕をたたき笛をならし、またチョウサイ(重哉)、チョウサヤとはやしたてるは苦しからず、また十二日と十三日の両日に限り、子ども達がその町内だけを引きまわすは差し支えなし」といった意味の布達が出た。
これは明治八年解除になったが、このやり方は後、かなり長らく続いて行われた。 |
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